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『北の桜守』吉永小百合 単独インタビュー

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『北の桜守』吉永小百合 単独インタビュー

俳優というより、アスリートに近い

取材・文:浅見祥子 写真:三浦憲治

北の零年』『北のカナリアたち』と吉永小百合を主演に迎え、北海道の豊かで過酷な自然の中に生きる人たちの人間模様を描く“北の三部作”。その最終章『北の桜守』が完成した。『おくりびと』の滝田洋二郎監督と初めてタッグを組んだ吉永はいかにこの作品に臨んだのか。堺雅人らとの共演は? 自身120本目となるこの映画にどのような思いを込めたのだろうか。

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映画の舞台を訪れ、心を打たれる

吉永小百合

Q:『北の桜守』で大切にしたことは何ですか?

北海道の大自然の中でどんなふうに人間が生きていくか? それがしっかり演じられたらと思っていました。それで撮影の1年以上前に、映画の舞台であるサハリン(旧樺太)を訪れました。ぜひ、わたしの演じる江蓮てつが生まれ育った場所、家族で暮らしていた所を見ておきたいなと。滝田監督もそう思っていらっしゃったので、行きましょう! ということになったのです。サハリンの風景の中に立ち、サハリンの風を受けることができて良かったです。想像以上に空が青く、白樺林がキレイで。だからこそなおさら、そこで生きた方たちの想いが伝わるようでした。

Q:てつは夫が本土から持ち込んだ桜の種を育てますが、そうした場所だと、桜にも特別な思いを抱きそうです。

そこではソメイヨシノは咲かず、エゾヤマザクラという寒さに強い桜があって、きっと健気に咲くのでしょう。そんなふうにサハリンを訪ねたことで、雰囲気を知ることができるのが大事で。お芝居に具体的に役立った面もありました。戦争が終わるころにソ連軍から攻撃を受け、てつと息子たちは決死の思いで北海道への脱出を図ります。そのときに越えたはずの峠へ行き、実際に歩いてみました。鉄道もあったのですが列車は見られず、ただ線路を歩いてみたら心を打たれました。いま現地に日本の方はほとんど残っていらっしゃらないのですが、そうして72年前に思いを馳せることができたので。

Q:滝田監督とのお仕事はいかがでしたか?

それぞれの思いをキャッチボールし、相談しながら作っていくわけですが、サハリンや網走へご一緒したのはきっと同じような思いからだったと思います。映画作りにおいて、同じ方向を向いていたのだろうと。滝田監督は、明るい方で! 滝田監督のようにいつも笑っていて、大きな声でしゃべる方は、わたしにとっては珍しかったです。

これまでの邦画の流れにない斬新な映画

吉永小百合

Q:流氷を前にしたマイナス20度を下回る海辺や、冬のような寒さの6月の海に入るシーンなど、過酷な撮影も多かったですよね。最も大変だったことは?

寒さに関しては、最初から寒い所でやりたいと思っていましたから大丈夫でした。けれど、息子をおんぶするシーンがありまして。二人が重い荷物をソリで運ぶシーンで、疲れ切って空腹の息子が「これ以上、歩けない」とてつに言うので、おぶうことになっていました。10歳の大きな息子だったので、雪の中でどうしたらいいのだろう? と家でいろいろな重いものを使って練習をして(笑)。これは大変だなと思っていたんです。それで実際に雪の中に行くと、不自然だからとおんぶはなくなり、助かりました。

Q:劇中にはケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の舞台演劇の表現もありますね。

それはもう大変に面白かったです。当時、樺太で起きたのはとても悲惨なこと。台本には最初しっかりと書かれていましたが、全体の中でその比重が重くなり過ぎるから抽象化して舞台表現としてやったらどうかと。それを聞いたときはどうなるのかわかりませんでしたが、とっても新鮮に感じられました。

Q:できた映画を観て、舞台パートはいかがでしたか?

作った側の人間の一人として、舞台の要素と実写の部分がかみ合った斬新な、新しいタイプの映画にはなったと思いました。これまでの邦画の流れにある映画ではないと。例えば舞台の要素も今回のように抽象的ではなく、家のセットを作ったりしていたら、なぜ舞台でやる必要があるの? となったかもしれません。でも今回は列車にしても抽象的なもので、出演された8人のパフォーマーが、あるときは車輪になり、あるときはソ連兵や看護婦にとさまざまに変身して表現されていた。彼らの動きはまさにプロで、とても面白かったですね。

次に向かって歩きたい

吉永小百合

Q:完成披露会見で「わたしはいつまでもアマチュアで反省ばかりです」とおっしゃっていて驚きました。

わたしは自分のお芝居や役柄をガチっと固めて演じるのでなく、1シーンずつやりながら、わかってくるところがあるんです。逆に今回てつの息子を演じた堺(雅人)さんは別のタイプで。シナリオを読んでプランを作り上げ、現場に来ても揺らぐことがありません。相手のセリフを聞き、自分がどう受け止めるかというわたしの曖昧な感じと、堺さんのピシっと決めている息子の芝居が、最終的にかみ合う。そんなふうになっていると思います。

Q:120本の出演作というのは、振り返るとあっという間なのでしょうか?

あっという間ともちょっと違って、好きでやっているうちに本数を重ねたということですね。100本目(『つる-鶴-』)が1988年ですから、そこから約30年の間に20本出させていただいたわけです。そのころから1本1本を大事にやろうと思っていました。でも120本を目指していたわけではありません。1本ずつやるうち、今回120本目になった。それはやはり元気だったからできたのだと思います。

Q:長い間、仕事へ向かう意欲が変わらないように見えます。

楽しいからです。映画が好きだからというのが一番の理由ですね。映画の場合100人近いスタッフと同じ方向を見て、いい映画にと願いながら作ります。それはもう、とても楽しいです。大変なこともあるから、逆に充実感を抱けるんでしょうね。なんとなくフワフワして終わってしまったら物足りないだろうし、満足したらそこで終わってしまう。俳優というよりアスリートに近いかもしれないですね。体力勝負(笑)。それであまり自分の昔の作品を観たりはしません。どんな作品をやれるのかはわかりませんが、次に向かって歩きたいのです。

Q:120本のうち、最も印象に残るのは?

自分の中で前期・中期・後期とあって、1本を選ぶのは難しいです。いまはやはり、『北の桜守』と申し上げたいですね。前期では『キューポラのある街』。自分の生い立ちと主人公がどこか通じるものがあって。高度成長期の時代、一生懸命に働く人たちと、上の学校を目指して頑張ろうとしている中学生の話で、自分自身と重ね合わせて気持ちを込めて演じることができました。中期で自分の役柄が面白かったのは『細雪』です。市川崑監督の魔法にかかって、それまではちょっと演じたことのないキャラクターを演じられたように思います。

Q:次回作の構想はありますか? 出演作を選ぶとき、決め手となるのは何ですか?

お話はいただいていますが、まだ決めていないんです。決め手はというのは、その役を好きになれるかどうか。そこがアマチュアっぽいところですけど、演じる人を好きになれないと演じられないんですね。それが悪人でもいいんです。この人が好きと思える悪人もいますから。

Q:以前「映画は50年後100年後も残るもの。自分には子供がいないので、映画は子供のようなもの」とおっしゃっていました。映画の作り手として俳優として、のちに残したい映画とは?

その時代を生きる人たちの想いを受け止めて作られていることが大事だと思います。『キューポラのある街』は、まさにそういう映画だったと思うんです。1962年ですから、もう50年以上経っているわけですよね。100年もの間、何度観ても胸に迫ってくる映画もあります。わたしが幼いころに観た『二十四の瞳』や、大人になってから観た『浮雲』もそうです。どちらも高峰(秀子)さんの作品ですね。最近観た、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』もとても良かったです。辛い想いを抱えながら社会の底辺で生きる人たちへのしっかりとした目を強く感じました。


吉永小百合

和服姿の吉永はインタビュー会場にやってくるなり、窓の外の都会の景色に目をやって、とても明るい声で「シネマトゥデイという感じね!」と場を和ませた。写真撮影が始まると、馴染みのスタッフと談笑しながらもテキパキと進んでいく。よく見ていると、どんなに楽しそうに語っていても、口元以外は微動だにしていない。インタビューではこちらの質問に即座に反応した、美しい日本語が返ってくる。そのすべてが、厳しくコントロールされたプロの仕事だった。

(C) 2018「北の桜守」製作委員会

映画『北の桜守』は3月10日より全国公開

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